哲学【差別感情】

 

 

今回は中島義通さんの「差別感情の哲学」について読んで感じたこと、考えたことをパートごとにまとめていく。

 

A<悪意はひとを鍛え、かつひとを滅ぼす>


Aパートを初めて読んだ時、正直どう解釈すれば良いかわからなかった。殆どが"ナツイカ"状態だった。そんなに人は悪意=攻撃心を持って差別しているだろうかと疑問になった。差別について考えた時、相手を傷つけようと発した言葉や行動にはもちろん悪意が存在するのだろうけど、私はどちらかと言うと日常で無意識に差別をしてるのではないかと思っていた。無意識のうちに悪意が含まれてるなんて思ってないから、差別に繋がるのだろうと思っていたけれど、ここで筆者の言う差別は、目に見えてわかるすごく攻撃的なもので、無意識とはまた違うような気がした。


"差別感情というテーマにおいて悪意を一掃することを目標にしてはならなくて、自他の心に住まう悪意と闘い続けることが大事で、それをいかに対処するかがその人の価値を決める"


批判的な心を持っていてこそ「文化」が生まれるし、攻撃心があったからこそ自己が確立していく。そういったことにどう向き合うかで人生の豊かさが決まるのは分かるような気がした。でもここで言う悪意がどうしても分からない。私が思う悪意はそう単純なものではなくて、もっと複雑で、そして誰もが持つ感情にとても密接であるような気がした。恐れや自己防衛、同情や、哀れみ…そういった感情も悪意に含まれるのだろうか。

 

 

B<快・不快を統制する社会の恐ろしさ>


冒頭の「誰でも(普通)―いかに合理的理由からであろうと―」の部分でどうしてわざわざ(普通)と入れたんだろうと思った。差別という題材を扱う時特に、普通という言葉にセンシティブになってしまう。誰から見た普通なのか、何を意図して言ったのかわからなくてもやもやしてしまう。

 

「多くの人は、他人から自分が「不快である」と明言されたくなく、それを明瞭に示す振舞いもされたくなく、さらに―これがポイントである―他人に不快に感じられたくさえないのであるから。」

「「不快であっても不快でないように振舞え」という(いたるところで教えられている)通俗道徳に留まってはならない。問題ははるかに深く根を張っている」


Bパートは割とうなずきながら読んでいた。私達は差別はしてはいけない!と教えられてきたからたとえ不快に思っていても表に出していない。私もそれが正解だと思って生きてきた。でも実は不快だと思われてたら?実際に差別されたら?どうしたらいいか教えられてこなかった。ただ差別はいけないことだと教えられ続けてきた私達は、当たり前に差別をするかしないかの判断する側に回って、差別の本質を見抜こうとしてないのではないかと思う。

 

 

<差別感情のスペクトル>


「一般に、特定の個人に対していかなる場合も不快な感情をもってはならない、とは言えないであろう。」


人間である以上さまざまな感情(不快など)を抱いてしまうから、差別感情を取り除くことはできないし、奪われたら人間存在の豊かさを保てないというのは考えたことがなかったけどそうだよなぁと思った。

 

「「公認された被差別者」に対してだけは、不快を表出しないように賢く振舞っている。なぜなら、そう振舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである。」


ここを読んで改めて、いかに人は弱い生き物であるか思い知らされたような気がする。しかしそもそもあの人はゲイだとか黒人だとか、「被差別者」だとラベリングすること自体が愚かであるように思う。

 

 

C<帰属意識アイデンティティ>

 

読んでいてあれ…?と思う箇所が何個かあった。特に「私が九州で生まれたと聞くや否や~みな変な顔をする」のところだ。レッテルを貼られたくないといいつつ、〇〇な人というように筆者も所謂レッテルを貼っているように思う。また「だが、こうしたことをあってはならないとすら感じている鈍感な善人が少なくない」という言葉にも違和感を感じた。

 

 

<家族至上主義>

 

「結婚して子供が生まれたとき、みなの祝福を期待し「大きな顔をして」報告するとき、あなたはすでに(潜在的)加害者なのである」


ハッと、気づかされた感じがある。最近映画がきっかけで家族について考える機会が増えた。その中で私が当たり前に思っていた家族のかたちや、家族に対して生まれる感情がいい意味で崩れてきた。なんだかわかったような気がしてた。だけど私は「望まない子供の誕生」という文字を見た時、可哀想だと思ってしまった。あっ私はどうしたって家族至上主義だし潜在的加害者なのである。誰かをわかる、理解するなんて傲慢だと思った。

 

 

D<「よいこと」を目指す態度>


「差別感情をもたないことがほとんど不可能であるのは、小学校のころから、「よいこと」を目指すように教え込まれているからである」


道徳の時間に一人一人の意識次第で世の中から差別は消えるだろう!と考えていた小さい頃の私を思い出してなんだか悲しくなった。やっぱり完全に差別を取り除くことはできないのだ。しかし幼少期に「よいこと」として植え込まれたから、差別してしまうのは仕方がないで片付けたくはない。何気ない会話の中で誰かを傷つけてしまったかもしれない。そうやって気づかないうちに差別や偏見が生まれてしまうということに対して、自覚的でありたいと思った。

 

 


うーん。自分の考えばかりになってしまった。。読みながら、ハゲパツ(その主張は絶対に認めない!)という強い意思はなかったし、全部なんとなくで判断してしまっていた。もやもやとした感情が渦巻いていて苦しい。哲学にはもっと、もっと時間を費やさないといけないな。