他己分析に向けて

 

 

前回のゼミでは自己分析の結果の共有と、インターンの話を聞いたり自己PRについて話し合ったりした。その中でも特にインターンに行った子の話にすごく刺激を受けたし、こういう人たちがグループに、ゼミに居てくれて心強いなと聞きながら考えていた。やっぱり自分で調べるだけでは限界があるし視野も狭くなってしまうので、自分の行動を共有して助け合うことの重要性を感じた。いつまでも聞く側にいないように、グループのためになる発言や行動を心がけていきたい。

 

 

さて今回は他己分析に向けてストレングス・ファインダーの結果を共有するということで、急いで本屋に駆けつけた。私はなぜか「ストレンジャーシングス…ストレンジャーシングス…」と唱えながら探していたので見つけるまでに1時間もかかってしまった。というのをブログのタイトルにストレンジャーシン…と打ってしまったことで思い出した。ネトフリ民はわかるかもしれないがスト、。まっその話は置いといて今回出た5つの資質を…

 

1, 内省

2, 成長促進

3, 適応性

4, 責任感

5, 達成欲

 

あぁ~と今までの行動を振り返ってみて納得できる部分もある。けど成長促進とは!?となったし、人からよく言われる責任感だったり、「強みの活かし方」がわかると書いてあるが読んでもどう受け止めたらいいのかわからなくなってしまった。

 

そういえば春に自己分析をした時に社会人や学生と1on1も行ったのだが、他者評価をどのように受け止めたらいいのかわからなくなってしまった。人からみた自分と自分の考える自分があまりにもかけ離れていて、そのギャップに悩んでしまった。

 

その時に言われた言葉をメモしていたので振り返ってみると「自分に対する視野が狭いんじゃない?」とか「やりたいこととかありたい姿っていうのは、たまねぎの皮を剥いて剥いてようやく中身の白い実が見えるみたいに、自分がどんどんいろんなことを経験してようやく見つかるもんなんだよ」など心に刺さる言葉ばかりで、、改めて貴重な機会だったなあと思った。同時にその機会を何で活かせてないんだ?と思った。自分の視野が狭いのはいろいろ考えすぎて踏みとどまってしまうからで短所だなと思っていた。しかし今回一番に内省と出てきて強みでもあったんだと気づいた。それと結果を受けて悩まずに別にそれはそれで頭の片隅に置いといて、でもいいんだと思った。人からの言葉や、他者評価は自分に対する視野を広げるきっかけにもなるから、もっとフラットに受け止めて考えすぎな部分をいい方向に向かせたい。

 

ストレングスファインダーの話に戻るが、キーワードに”今” ”多様性” ”子供” ”自然” など結構大事にしたいと思っていたことも書いてあり、企業研究でも意識するようになった。あとは発信力が弱いみたいで、自覚しているのだけれど、自分の撮った写真も作ったものも内に留めず表に出さなきゃだなと、そう思うと義務みたいで嫌になるので小さなコミュニティからどんどん広げていけたらと。やってみないと何もわからないのに悩むなよと自分に言い聞かせて、明日から頑張っていこう。

 

 

 

少しずつ。

 

 

まず最近考えてることを、少し。

 

3か月前に観た「はちどり」という韓国映画の主人公ウニのことがずっと頭から離れない。毎日思い出しては、心の奥のほうで何かが引っかかったような感覚に陥る。そんなウニがきっかけでよく生きづらさについて考えるようになった。コロナ禍を生きる自分にとっての、そして何より誰かにとっての生きづらさについて。

 

 

自粛明けにバイトに行くと、毎週同じ時間に来ていた聴覚障がいのあるお客さんがこなかった。次の週も、その次の週も。いつも私の口を見て言葉を理解していたから、マスクが義務化された現在外に出て買い物ということがしづらいんじゃないか。これはあくまで私の推測に過ぎないのだが。。

 

バイト先ではソーシャルディスタンスを保つために客席の間隔を開けている。だから満席になりがちだ。ある日おじさんが「周りの人が承諾してくれたら詰めて座っていいだろう」と言ってきたのでそれはできないと伝えたところ、物凄く怒って帰ってしまった。なんて自分勝手な人なんだろうと思っていたが、振り返ってみるとそのおじさんもこの状況で不満が溜まっているだろうし、何らかの理由があったのかもしれない。私とはまた違った生きづらさを感じているのだろうと思った。

 

みんな立場や状況は違えど、それぞれが生きづらさを感じている。コロナ禍でそれが加速したというのも正しいかもしれないが、実際には浮き彫りになったんじゃないだろうか。考える時間が増えた分、私たちは元々持っていた生きづらさを、自分自身には隠せなくなったのだと思う。だけど多くは、弱音を吐くのを避けて、生きるために働き続けて、こういう状況だからこそ何かをしようとする。

 

全部全部、目に見えてわかれば救えるのにと思う。常に誰かと比べて頑張らないとと気を張ってしまう。もっと気持ちを楽に、生きる方法があるのではないか。

 

私の心の中には常にウニがいて、どうすれば救えるだろうかと考えている。自身を救いたい気持ちにも何となく繋がっているのだろうけれど、日に日に同じように生きづらさを感じている人の力になりたいと思うようになった。なんだか綺麗ごとのようだが、私の生きる原動力というか目的を見つけられたような気がした。

 

3か月バイトを休んで弱音も吐いたし、生きるために働くのを辞めて、こういう状況だからこそ何もしなかった。みんなと比べると遅れてるかもだけど、自分にとって大切なものは何か知れたし、これはこれで悪くはないと思っている。

 

 

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哲学【差別感情】

 

 

今回は中島義通さんの「差別感情の哲学」について読んで感じたこと、考えたことをパートごとにまとめていく。

 

A<悪意はひとを鍛え、かつひとを滅ぼす>


Aパートを初めて読んだ時、正直どう解釈すれば良いかわからなかった。殆どが"ナツイカ"状態だった。そんなに人は悪意=攻撃心を持って差別しているだろうかと疑問になった。差別について考えた時、相手を傷つけようと発した言葉や行動にはもちろん悪意が存在するのだろうけど、私はどちらかと言うと日常で無意識に差別をしてるのではないかと思っていた。無意識のうちに悪意が含まれてるなんて思ってないから、差別に繋がるのだろうと思っていたけれど、ここで筆者の言う差別は、目に見えてわかるすごく攻撃的なもので、無意識とはまた違うような気がした。


"差別感情というテーマにおいて悪意を一掃することを目標にしてはならなくて、自他の心に住まう悪意と闘い続けることが大事で、それをいかに対処するかがその人の価値を決める"


批判的な心を持っていてこそ「文化」が生まれるし、攻撃心があったからこそ自己が確立していく。そういったことにどう向き合うかで人生の豊かさが決まるのは分かるような気がした。でもここで言う悪意がどうしても分からない。私が思う悪意はそう単純なものではなくて、もっと複雑で、そして誰もが持つ感情にとても密接であるような気がした。恐れや自己防衛、同情や、哀れみ…そういった感情も悪意に含まれるのだろうか。

 

 

B<快・不快を統制する社会の恐ろしさ>


冒頭の「誰でも(普通)―いかに合理的理由からであろうと―」の部分でどうしてわざわざ(普通)と入れたんだろうと思った。差別という題材を扱う時特に、普通という言葉にセンシティブになってしまう。誰から見た普通なのか、何を意図して言ったのかわからなくてもやもやしてしまう。

 

「多くの人は、他人から自分が「不快である」と明言されたくなく、それを明瞭に示す振舞いもされたくなく、さらに―これがポイントである―他人に不快に感じられたくさえないのであるから。」

「「不快であっても不快でないように振舞え」という(いたるところで教えられている)通俗道徳に留まってはならない。問題ははるかに深く根を張っている」


Bパートは割とうなずきながら読んでいた。私達は差別はしてはいけない!と教えられてきたからたとえ不快に思っていても表に出していない。私もそれが正解だと思って生きてきた。でも実は不快だと思われてたら?実際に差別されたら?どうしたらいいか教えられてこなかった。ただ差別はいけないことだと教えられ続けてきた私達は、当たり前に差別をするかしないかの判断する側に回って、差別の本質を見抜こうとしてないのではないかと思う。

 

 

<差別感情のスペクトル>


「一般に、特定の個人に対していかなる場合も不快な感情をもってはならない、とは言えないであろう。」


人間である以上さまざまな感情(不快など)を抱いてしまうから、差別感情を取り除くことはできないし、奪われたら人間存在の豊かさを保てないというのは考えたことがなかったけどそうだよなぁと思った。

 

「「公認された被差別者」に対してだけは、不快を表出しないように賢く振舞っている。なぜなら、そう振舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである。」


ここを読んで改めて、いかに人は弱い生き物であるか思い知らされたような気がする。しかしそもそもあの人はゲイだとか黒人だとか、「被差別者」だとラベリングすること自体が愚かであるように思う。

 

 

C<帰属意識アイデンティティ>

 

読んでいてあれ…?と思う箇所が何個かあった。特に「私が九州で生まれたと聞くや否や~みな変な顔をする」のところだ。レッテルを貼られたくないといいつつ、〇〇な人というように筆者も所謂レッテルを貼っているように思う。また「だが、こうしたことをあってはならないとすら感じている鈍感な善人が少なくない」という言葉にも違和感を感じた。

 

 

<家族至上主義>

 

「結婚して子供が生まれたとき、みなの祝福を期待し「大きな顔をして」報告するとき、あなたはすでに(潜在的)加害者なのである」


ハッと、気づかされた感じがある。最近映画がきっかけで家族について考える機会が増えた。その中で私が当たり前に思っていた家族のかたちや、家族に対して生まれる感情がいい意味で崩れてきた。なんだかわかったような気がしてた。だけど私は「望まない子供の誕生」という文字を見た時、可哀想だと思ってしまった。あっ私はどうしたって家族至上主義だし潜在的加害者なのである。誰かをわかる、理解するなんて傲慢だと思った。

 

 

D<「よいこと」を目指す態度>


「差別感情をもたないことがほとんど不可能であるのは、小学校のころから、「よいこと」を目指すように教え込まれているからである」


道徳の時間に一人一人の意識次第で世の中から差別は消えるだろう!と考えていた小さい頃の私を思い出してなんだか悲しくなった。やっぱり完全に差別を取り除くことはできないのだ。しかし幼少期に「よいこと」として植え込まれたから、差別してしまうのは仕方がないで片付けたくはない。何気ない会話の中で誰かを傷つけてしまったかもしれない。そうやって気づかないうちに差別や偏見が生まれてしまうということに対して、自覚的でありたいと思った。

 

 


うーん。自分の考えばかりになってしまった。。読みながら、ハゲパツ(その主張は絶対に認めない!)という強い意思はなかったし、全部なんとなくで判断してしまっていた。もやもやとした感情が渦巻いていて苦しい。哲学にはもっと、もっと時間を費やさないといけないな。

 

 

暇と退屈

 

 

今回のゼミでは暇と退屈について考えた。

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私はこの質問をされた時、別に今暇でも退屈でもないなぁと思った。だから③を選ぼうとした。

 

いやしかしまてよ、暇じゃないといったらなんだか嘘になりそうだなと思った。

 

というのもゼミの前日、友達から

「明日の夜暇ー?」

ときてて

「暇だよ~」

と答えていた自分がいたからだ。私、暇なんじゃん。

 

映画でも観てるその時は暇とか退屈かとか一切考えたことはないけれど、今考えてみると暇だからできていたことなのかなと思った。だから最終的に②を選んだ。

 

その後②を選んだ人達で集まって話し合った。他の班からは②の意味がわからないと言われているようだったが、私達は意味がわからないことがわからなかった。③は常に忙しくて切羽詰まってそうだね、とか話した。その後、他のグループの子と混合で話し合ったのだが、意味がわからない理由がはっきりした気がした。どうやらグループごとに、または人ごとに暇と退屈の解釈が違ったようだ。

 

②の人

暇→時間があるかどうか

退屈→気持ちの問題(楽しいかどうか)

 

③、④の人

暇→やらないといけないことがあるかどうか

退屈→気持ちの問題(〃)

 

退屈に対しての解釈はだいたい同じようだったが、暇の解釈が違った。そこで先生から「暇とは何か」という課題を出されたのだ。

 

 

書ききれるだろうか…とりあえず思ったことを書いていこうと思う。

 

まず私は暇がすごく好きだ。暇は楽しいこと、自分のやりたいことができる時間だと思っていて、課題や仕事などやらなきゃいけないことの間にできるものだと思っている。課題に追われてる時っていうのは、誰かに拘束されてる時間だからそこに暇は関係ないと思うのだ。私は課題と課題の間、つまりやるべきこととやるべきことの間に生まれる時間のことを暇と言うんじゃないかと考える。

 

最近拘束された時間が嫌で仕方なくて、息苦しいから暇という時間を勝手に作っちゃってる感じがある。何も暇を作ろう!と思って作っている訳では無い。だけど自分のやりたいことができる時間(暇)がないと、その1日を好きになれる気がしないから私はその間が狭くてもなんとかこじ開けている。そんな気がする。

 

逆に暇ではないとはどういうことだろうか。やるべきことに追われて一息つく時間もないということ?しかし大抵の人は時間を意識しすぎて頭が次のやるべきことに支配されて暇を作り出そうと思っても作り出せていない、もしくは暇があってもなかったことにしてしまってる状態にあるのだと思う。円グラフのスケジュールで考えると、1日のうちの大半がやるべきことだと、その間にわずかに時間があったとしても、ほんの小さなものに見えてしまうのかと思った。たとえ間の割合が同じ2人でも、1日のスケジュールをどう見るかで暇であったかなかったか、主張が変わるのかなぁ。

 

結果、暇の有無はその人の時間に対する意識、捉え方で決まるのかなと思った。私は時間を意識しすぎた時に暇でなくなってしまうような気がする。間の時間がないように思えてしまう。時間に対して無意識だったからこそ、暇がより大きなものとして見えた=暇であるという答えに至ったのかなとも思う。

 

調べると暇は全く何もすることがない状態であるとも書いてあるが、間にあるわずかな時間でも暇というなら、それをどう使おうが自由だし自分次第である。その時間の使い方が退屈かどうかに大きく影響してくるのだと思う。だったら私は暇を否定的に捉えないで、これからも暇を作りたいし、楽しみたいと思った。

 

 

と、ここまで、、、なんだか途中から自分の中で暇「で」あるが暇「が」あるに変わったような……意見が食い違ってた理由の1つがこれであるような気もした。一文字違うだけで意味も変わってくるから難しい。

 

もっとみんなの意見も取り入れて色んな視点から考えられたらよかったなぁ。でもそれなりに暇と真剣に向き合えたはず!考えること、もっと楽しみたいなぁ

 

 

映画【パラサイト 半地下の家族】を観てしまった。

 

観てしまった。昨年の春からずっと楽しみにしていた映画をついに観てしまった。よりによって試験直前に。まだ振り返りブログが仕上がってないのに。一旦感情を吐き出しておかないと何も手につかないほどひどい余韻に浸かってしまっているので、ダダっと書き留めて自分を落ち着かせたい。(ネタバレなしで!)

 

 

私は数年前キムギドク監督の「弓」という映画がきっかけで韓国映画に観るようになったのだが、その中でもポンジュノ監督の作品が特に好きだと思った。あのジメジメとした空気感と絶妙なカメラワーク、特にラストまでの持っていき方がとても好きだ。「殺人の追憶」や「母なる証明」が特に良い。

 

そんな監督の最新作をようやく観れた。いや観てしまったのだ。

 

はい、こちら。「パラサイト 半地下の家族」。韓国では「기생충(寄生虫)」と言う題だ。

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<予告編>https://youtu.be/VG9PjxVMd08

 

 

 

………

……

(((震えが止まらない)))

 

あのー凄い。これは凄い。2020年7本目にして今年のベスト映画がでてしまった。

 

社会派映画だが、コメディ要素があり、少々グロテスク。私の拙い言葉達で感想を述べるのが申し訳なるほど素晴らしくて、そして実はまだ全部を理解できてないのではないかと思うから不安でもある。しかし、語らずにはいられない。"格差社会と家族"がテーマに描かれているのだが、是枝裕和監督の「万引き家族」とどこか重なる部分がある。下層社会という点では昨年話題となった「ジョーカー」も似ている。しかしパラサイトはその2つとは決定的に何かが違った。面白さの差とかそういうのではなく。そもそも国が違うじゃんっていうのもあるけど私は貧困者の視点や描かれ方がちょうどいいと思った。その人に寄りすぎてないし、かといって離れすぎてもない。序盤は自分とは遠い話だと思っていたが、いつの間にか感情を重ね合わせていて、なんだか他人事ではないような気がして引き込まれていった。

 

とにかくこの映画を観ながら終始空いた口が塞がらなかった。息をするのも忘れてた。ずっと時限爆弾のボタンを握らされてるような感覚だった。変な汗が止まらない。震えも止まらない。なんですかあれは。とても怖い。怖すぎる。お隣の国でとんでもない映画が誕生してしまった。私は語彙力が爆発する方のボタンを押してしまったようで途中から「ちょっ、ちょっまっ、すごっ、、、ちょっ、、え、、、」しか言えてなかった。

 

鑑賞後大好きな音楽も聴くのも忘れるほど世界に浸かっていて、高まる鼓動に合わせて歩いていたのでいつもより3分早くバス停に着いた。

 

家に帰り少し冷静になって、あぁこれだから映画が好きなんだぁと思った。映画館で圧倒させられたのは久しぶりだった。私は今日、昨日よりも映画が好きになった。

 

 

はぁ…内容は言えないから感情を詰め込みまくった。昨日公開されたばかりなので時間があれば。。いや…観て!!!!!かなりハードルが上がってるかもしれないけど、この映画はたぶんそのハードルを優に超えてくると思う。それほどとてつもないパワーを持った映画だった。

 

 

さてと、吐き出してだいぶ落ち着いた。春休みは今日みたいな感情に任せた感想よりも、心に染み込むスピードが遅くて、とても良いけれどまとめるのは難しいような映画の感想に挑戦したいなぁ。

ミズノプロジェクト🌳

 

下書きを溜めて、溜めて、かなりグループに迷惑をかけてしまった。話し合いを進めていく上でみんなのブログがかなり参考になった。メモで残すのではなく、ブログで共有することの重要性を痛感した。

 

発表まで残り1週間となったが、今日振り返りをしていく中で特に調査結果(価値マップの解釈と関係性)について上手く説明できず行き詰ったのでそこを重点的に今までの流れをまとめていこうと思う。

 

私達の分析方法はKA法と価値マップである。KA法とは、どんな小さな出来事(行為)にも「価値」が潜んでいると考え、一つ一つの出来事から価値を導入する方法だ。調査結果を出来事、ユーザの心の声、出来事の裏にある価値に分けていく。f:id:ikumaru251:20191211214703j:image

そして似た価値同士で分類し、価値の関係性を整理したものが価値マップである。

 

木の班のプロジェクト目標は《つながりを感じられる・コミュニケーションのきっかけづくり》だ。そこで私達は居酒屋などで人と人が繋がる瞬間に着目した。インタビュー内容は、偶然の出会いについてである。そこからKA法と価値マップで分析を行い出会いの価値が凝縮されたモノを作ろうというのだ。

 

 

――11月20日(水)

それぞれでKAカードをまとめ、似た価値同士の島を作っていった。最初は時間の流れで分けていった。【今→今+未来→未来】の3つの島だ。しかし価値を時間で分類する中で、グループ内で時間の捉え方にズレが生じた。みんなが納得する分け方ではなかったので却下となった。

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次に価値を重さで整理してみた。「自分の夢が見つかる価値とか、特別な存在が見つかる価値とかちょっと重すぎない?」とか言いながら分けていった。「もともと私達の目標はコミュニケーションのきっかけとかで、そんなに大きなものではないよね」とか。「共有する価値はなんだか軽く感じる」とか。この日の話し合いはスピード感あったが、なんだか大きなモヤモヤを抱えて終わってしまった。そのため1週間もう一度各自で価値マップを考えてくることになった。
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――11月27日(水)

少し時間を置いて考えると、価値の重い軽いって人それぞれなのでは?とか何を基準に決めてるんだろう?などいくつか疑問が出てきた。しかし分類は間違えてない気がしたので、言葉を変えて考えることにした。最終的に私はその価値はどれくらいの人を巻き込んでいるのかで分けてみた。最初に思い浮かんだ関わる人数や、コミュニティの大きさをイメージしたモワモワとした図に当てはめていく感じで分けていった。

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グループで共有すると、次々と疑問をぶつけてくれた。自分でもよく分かってない部分があったのだが、形でしかイメージ出来てなかったものが徐々に言葉として見えてきた。そうしてできた3つ島の名前は【自分、相手と自分、みんな】だ。

自分=自分の中でしか生まれない価値

相手と自分=相手と自分の間で生まれる価値

みんな=多くの人の関わりで生まれる価値

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3つの島が共通して感じられる価値として"楽しい時間を過ごせる価値"を中央にもってきた。この価値を通して全てが繋がっているという意味を込めた。

 

 

――12月4日(水)

価値マップを用いて、簡易ペルソナを考えることにした。私達はどうしてもモノがきっかけで話したいという欲求が生まれるのではないかとモノを意識しすぎていたのだが、先生から助言をいただき、ある状況に置かれることで潜在的欲求が生まれるのだと知った。話し合った結果、地元から離れた場所に行く(状況)ことで、寂しいという感情(潜在的欲求)が生まれるのではないかということで、

"ふとした瞬間に寂しさを感じ、話し相手が欲しい社会人1年目、独身男性"

というペルソナを作った。しかしここで新たに問題が出てきた。当初はたまたま隣にいた人が同じ福大グッズを持っていたという偶然の繋がりを演出しようと思っていたが、それは無理があるなと感じた。「モノを持ってるのは私?それとも相手?」とか「ペルソナは1人でいいの?」という声も出た。価値マップを用いながら考えるので、どうしても相手やみんなの存在が離れない。メインユーザー以外の状況も考慮しなければならないのかなと迷っていた

 

 

――12月9日(月)

価値と価値がなんとなくで結びついてしまった感があったから、欲求は見つけたけれど自分達でも納得できていないのかなと思った。そこで自分達が作ったユーザーの目線から、もう一度価値マップの関係性を見つめてみることにした。するともっと簡単に3つの島の繋がりを説明できるのでは?と思ったのでこれまた図にしてみた。

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私達が作ったユーザー(自分)を中心に考えた時、まずモノを通して相手と出会い直接的な繋がりができる。福大グッズがきっかけで相手に出会うことで、目には見えないけど自分の頭の中で福大という大きな繋がり(みんな)を意識する。この場合相手の背景にみんなの存在を感じているので間接的な繋がりができる。

また今までの考えだと中央の"楽しい時間を過ごせる価値"は今、その場で生まれる価値でしかなかったが、自分を中心にみんなに繋げるとあの頃は楽しかったという記憶からなる価値にもなる。福大という存在を間接的な繋がりによって感じた時に生まれる楽しかったという記憶の価値が、自分と福大のつながり、つまり愛着を深くしているのではないかと思った。(私達は愛着=繋がりを感じた時に生まれるものだと解釈している)

 

 

――12月11日(水)

この考えによって、相手の状況は気にしなくていいだろうという結論に至った。今日グループの1人が言っていた言葉を。。「最初は福大×福大のパターンで考えてたけど、自分が福大のモノによって他の人と繋がれたところで愛着を感じられたら、それでもいいんじゃないかな。福大同士じゃなくてもその場面で自分の中で愛着が生まれる可能性があるということがわかったよね」と。なるほどなぁと思った。

 

あと今日、現時点で出ている商品と価値の繋がりをどう説明する?と質問されたので考えてみた。まず私達は価値マップの中でも特に不安を解消する価値と特別な人が見つかる価値、共有できる価値に注目して商品を考えた。なぜ関係のない価値たちが繋がってるのかというと、さっきも言っていた通り、直接的・間接的な繋がりを通して3つの大きな島は繋がっている訳で、そこで生まれた楽しい時間過ごせる(と過ごせた記憶の)価値を介すことで、全てが同時に存在しているからだと思う。だから最初に言った通り、出会いの価値が凝縮された商品になってはいるんじゃないかなぁ。

 

 

さて、長くなったがどうだろうか、、それにしても他の班が愛着についてかなり議論してるからか、私達はこれでいいのかと不安になる。比べる必要も正解もないけれど、自分の考えになかなか自信を持てない。残り1週間と短いけれど、まだまだみんな疑問をぶつけて欲しいし、最後まで粘りたいな。

 

 

後期、始まる

 

後期が始まった。

 

今年の夏休みはというと毎日何かしらの予定があり、ほとんどの時間を外で過ごしていた。毎日新しい出会いがあることは刺激的だったが、自分の中の何かが少しずつ摘み取られていくようで、心はなぜか不安定だった。私にとって充実というのは予定で埋まっていることではなく、誰とも会わない"余白の時間"が適度にあることだと知った。春休みはもっとこの余白を意識して、自分なりに充実した休みにしたい。

 

 

さて、ゼミ最初は自己紹介とミズノのグループ分けがあった。

 

自己紹介ではそれぞれの夏休みについて聞いた。みんな結構海外に行っていて、アクティブだなぁと思った。ミズノのグループ分けでは革、木、アパレルの3つで分かれることになった。私は最初「革かアパレルがいいなぁ」と直感で思ったのだが、そう思った人が多かったのか木を選んでいる人が全くいなかった。いないから仕方なくという訳ではなく、自分がしたい!と思わなかったものを敢えて選んでも良いかもなと思ったので、木にした。意外と木は身近なもので、考えるのが楽しいかもしれない。

 

 

そして、今回出された課題は「30分の行動観察」だ。

出されたのだが、"新しい絆創膏を考える"の時のように目的が設定されてないので、観察する場所や範囲はどうすればよいのかと非常に迷った。何か目的を設定しないと、行動観察はただの観察になってしまうのではないか。とか色々。

 

色々迷ったあげく選んだ場所は、はい、六本松蔦屋!自己紹介でも言ったが本当にこの場所が好きで、まさに私のサードプレイスなのである。故に周りをあまり気にしたことがなく、他の人はどう過ごしているのか気になったのでココにした。

 

 

9月23日(月)20:00~20:30

祝日ということもあり、いつもより騒がしく、人が多い。範囲は写真の通り、窓側、テーブル、ソファ、一番端の4箇所に分け、全体的な行動観察をすることにした。

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こんな感じに。。

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【考察】

窓側・・・圧倒的活動量、そしてメガネ率。グループはいない。周りが気になっている人はいない。仕事、勉強に活用している。平均滞在時間が長い。

 

→→完全なるパーソナルスペース。集中したい人。敏感な人?

 

テーブル・・・テーブルいっぱいにモノ(フード、本など)を広げている。回転率早い。本を替える回数が一番多い。声量が大きい。平均滞在時間が短い。

 

→→行動的、あまり周りが気にならない人?

 

ソファ・・・目的は本や仕事ではない。スマホを触ったり、喋ったり。ソファにしっかり腰をかけてリラックスした様子。

 

→→家のような感覚。普段あまり利用しない人?

 

私側(一番端)・・・なんだかソワソワしてる。落ち着きがない。周りをやたらと気にしてる。本→スマホ→パソコンの切り替えが早い。

 

→→窓側より敏感な人。後ろに人がいるのが嫌?

 

【疑問】

今回行動観察をする上で、性別は考慮すべきなのかなと思った。各場所で男女比率は大きく違ったのだが、それは私が外見で判断した性別であるだけで、実際のところ人によるかもしれない。例えばユーザーの潜在的なニーズを知りたい時、性別を意識して観察すると先入観もあり観察の妨げにもなったりするのかなと思ったりした。

 

【まとめ】

だいたい予想はついていたが、場所によってここまではっきりと用途や人に違いがあるとは思っていなかったので面白かった。なぜ六本松蔦屋は愛されて、いつも人で溢れているのかというと、人それぞれの"居心地の良さ"に合ったスペースを確保できる空間作りがされているからだと感じた。

 

しかし、30分は思ったより短い。1人で観るには範囲が広すぎて見逃したりだいたいで判断してしまっている部分がたくさんある。次回は目的を明確にして、観る範囲や行動数を予め決めておこうと思った。