映画【沈没家族】"家族のカタチ"って何だろう?

 

いい映画を観た帰りはいつも泣きそうになる。
幸せだという感情が身体の内から溢れでるからだ。この余韻が冷めないうちに、思いを書き留めたいと思った。

 


今回、加納土監督の映画「沈没家族」の舞台挨拶・サイン会に参加してきた。

〈予告編〉https://youtu.be/6CIUL_msLs0

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〈あらすじ〉

時はバブル経済崩壊後の1995年。地下鉄サリン事件阪神淡路大震災が起き、世相がドンドンと暗くなる中、東京は東中野の街の片隅で、とある試みが始まりました。シングルマザーの加納穂子が始めた共同保育「沈没家族」です。ここに集まった保育人たちが一緒に子どもたちの面倒を見ながら共同生活をしていました。そこで育ったボク(監督:加納土)が「ウチってちょっとヘンじゃないかな?」とようやく気づいたのは9歳の頃。やがて大学生になってあらためて思ったのです。 ボクが育った「沈没家族」とは何だったのか、“家族”とは何なのかと。当時の保育人たちや一緒に生活した人たちを辿りつつ、母の想い、そして不在だった父の姿を追いかけて、“家族のカタチ”を見つめなおしてゆきます。(公式より)

 

 

 

はぁ……………とてもいい、とてもよかったのだ。

 

ドキュメンタリー映画だが、ホームビデオを観せられているようで、温かさに包まれて終始心地よかった。これまで知らない誰かの優しさや、本音に触れて泣きそうになったことがあっただろうか。

 

ここからはそれぞれの場面で感じたこと、そして家族のカタチについて考えたことを書いてみる。

 

~母の強さ~

母、加納穂子さん(以下、穂子さん)が沈没家族を始めたきっかけは、何か新しい取り組みをしたかったからではなく、ただ生きていくために必要だったからだという。生きていくために、町中にチラシを配り助けを求めた。穂子さんにはできないことはできない!と言える強さがある。他人に弱さを見せることは容易ではない。シングルマザーであることに縛られ1人で無理する必要はない、ずっと傍に居てあげることが母親としての愛情の裏付けではないということをこの映画で証明してくれている。そんな穂子さんの魅力に誘われて人々は集まり、沈没家族はできた。穂子さんあっての沈没家族だなとつくづく思った。

 

~個性的な保育人~

穂子さんの呼びかけで集まった保育人はユニークな人ばかりだった。しかし誰1人として、加納土監督(以下、土くん)のことを息子だと思って接しておらず、また家族と意識しながら生活をしていなかった。なぜこんなにも多くの保育人(それも独身男性や結婚願望がない人)が集まったのか不思議に思ったのだが、みな居場所を求めていたのだと感じた。穂子さんと同じように生きていくために、沈没ハウスに来たのだ。血の繋がってない、家族のようで家族ではない存在。沈没家族は、穂子さんと土くんのためだけでなく、多くの人を救う居場所になっていたのだと保育人と土くんとの会話の中で気づいた。

 

~父の不器用さと本音~

土くんが1歳の頃には離婚をし、実の父である山村克嘉さん(以下、山くん)とは週一で会っていた。土くんにとって山くんは、特に仲の良いおじさんでしかなかったらしい。その事にたいして葛藤し、映画の中でも激しく衝突している。私たち鑑賞者の多くが山くんの葛藤に心を揺さぶられたのではないだろうか。保育人のように子育てに参加できないもどかしさを上手く伝えられない不器用な山くん。山くんは土くんと本当の家族になりたかったんだと思う。山くんの本音は写真を通して痛いほど伝わってきた。2人の写真で埋めつくされたアルバムには笑顔こそなかったが、そこには確かに愛があった。

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不器用だからこそまっすぐと伝わってくる想いがある。私は生まれて初めて写真を見て涙を零した。

 

~"家族のカタチ"を考える~
沈没家族に対して、「普通じゃない環境で育てられて可哀想」というコメントが寄せられたそうだが、そもそもあなたのいう普通って何なのだろう。血が繋がっていることが普通?普通の基準はいったい誰が決めているのだろう。と、様々な疑問が生まれてくるが、これが正しいという価値観を押し付け、普通の基準を決めつけているのは私達大人なのではないのかと思う。まだ幼い頃の土はこの家族のカタチを純粋に楽しんでいた。どんなカタチであっても子供が安心していられる場所があるっていいなと思う。自分が家族だと思ったら、そこは家族でいいのだ。そもそも家族のカタチを明確化する必要はないのではないか。正解なんてものはない。家族というものは概念にすぎないのだから、しっかり自分の価値観で"家族のカタチ"を信じていきたい、そう思った。

 

 

 

上映後、舞台挨拶があった。

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加納監督はもう100回以上舞台挨拶をしているという。すごい。ノンストップでこの作品への愛を語っていた。

 

その中で印象的だったのが、卒業制作だったものを劇場版に編集していく上で自身の考え方に変化があったということだ。特に父である山くんとのシーン。卒業制作版では物語の大きな変化の素材として、山くんとの喧嘩のシーンで、決定的に分かり合えないという感じで終わっていたという。だが編集をしていく上で、山くんの切なる想いに気づいていった。言葉のやり取りに終始固執して考えていたけど、もがきながら撮った写真を見て、山くんという存在に対しての見方が変わったという。

 

 

"たまたま僕を生んでくれてありがとう"

 

"たまたま"この言葉を監督は何度も使っていた。たまたま出会って、たまたまできた共同体が家族であるだけなのだ。人生はたまたまの連続である。今日はたまたま、こんな素敵な映画に出逢えてよかったと心から思った。

 

 

気持ちが先行するあまり、自己満になってないだろうか。私は、この映画をもっと多くの人に観てもらいたい!!よさを知ってもらいたい!!!そんな想いでブログを書いた。このブログがきっかけで1人でも興味を持ってくれる人がいたら嬉しいなぁ。